草刈り

5月3日自治会役員様(18名)のご協力により今年最初の草刈りを実施できました。役員皆様に深く感謝いたします。

駐車場草刈り

木舟屋

富山県人 平成26年3月号掲載内容より

先祖の「奉納刀剣」82年ぶりの発見に寄せて 齊藤博氏

石黒兵太郎のルーツは、平安時代の石黒庄に由来する「南砺石黒氏」であり、遡ると越中権守を務め仁和寺の石黒庄の庄官として土着した豪族・藤原(齊藤)則高に至り、さらには奈良時代の大織冠・藤原鎌足に及ぶと言われております。その「石黒氏」の中で、1183年の源平倶利伽羅合戦で名を残した福光の石黒太郎光弘は、小矢部川を下って要衝の福岡・木舟に木舟城を築き、「石黒氏」は代々城主として呉西の有力な地位にありましたが、戦国時代に越後・上杉謙信と同盟関係にあり、謙信の急逝で運命が尽きております。1581年織田信長に近江佐和山城に呼ばれ、長浜で丹羽長秀に石黒成綱が家臣17名と共に謀殺(自害)され、「石黒氏」400年の歴史は閉じました。しかし、木舟城を追われた石黒一族でありますが、逃げ帰った分家の家老・石黒与右衛門が身を隠し、現小矢部市の岡で農民となり代々肝煎を務めております。江戸時代の1642年に加賀藩が小矢部御蔵を現小矢部市の福町村に設けますが、1661年に与右衛門の分家の木舟屋三右衛門が西福町で木舟に因んだ屋号「木舟屋」の米穀商を始めております。続きは、石黒氏の末裔の「木舟屋」をご参照ください。

長塚、長かん三昧

 

福岡駅の東側に隣接して福岡町下蓑の共同墓地があった。昭和三十一年十二月、此の墓地は株式会社富山製錬所の工場敷地として買収せられ、埋骨及工作物はすべて町の東西にある別の共同墓地を拡張してそこへ移されたので、今は跡形もなく原況を想像することさえ出来なくなった。此の共同墓地は、もとは火葬場も兼ねて居たもので、長かん三昧とも長塚三昧とも称した。此の長かん三昧の南、宝性寺塚から見て正西に接して長塚というのがあった。

宝性寺塚

今こそこの墓地及び長塚あたりは福岡町下蓑領であるが、昔は上蓑、下蓑、蓑島の別なく、一帯が概念的に宝性寺の領域と考えられて居たことであろう。

長谷部氏は信連までは長谷部氏を名乗って来たが、信連が遠江国長村に生まれたところから長氏を称したので、信連は長氏の始祖であるから宝性寺歴代も長氏を称したことであろう。だから、長塚とは長塚とは長氏の塚という意であろう。随って、長かん三昧も長家三昧とか長棺三昧とかの意で、その昔長塚宝性寺の火葬場であったのではあるまいか。

長塚

参考:メディアが伝える城下物語 初瀬部乗侯著

古町と宝性寺開基(「蓑のしずく」より抜粋)

わが村の発祥沿革について、今一つ閑却してはならないのは字古町である。古町というのは甚右エ門川(中川の下流)の右岸で、福岡町、砺波市間の県道が其の中間を貫通している。現在はこの地区に五軒が県道をはさんで聚楽的にたちならんでいるが、それまでは一軒の家もなく、もとより県道もなく、広い田んぼの中に円錐形の塚が三本の杉の木を目じるしに雑木に包まれて立って居るのと、其の少し東北に田一枚をへだてて村の共同墓地が設けられて居るのみで、秋風徒らにとぐろを吹くさびしいところであった。けれども、此の地区こそは此村の沿革と深い関係を持つ由緒ある地区で、字古町の地名がかつての町立ちを想像させる強い語感を持っている。此の地区は、古屋敷や村中への入植者が神社を中心として開墾に専念し純農村を建設してきたのに対し、寺院宝性寺を中心として門前町を建設してきたところに特異性がある。

宝性寺塚の碑面に刻まれた碑文によると、今の岡村宝性寺第十七世乗覚が嘉永五年(1852年)に村人の協力を得てかつての宝性寺跡に碑を建てたもので、

1.岡村の宝性寺は昔は上蓑にあったもので、はじめは天台宗であった

2.寛正の頃に長谷部信連の後裔信貞なるものが真宗に改宗した

3.天正のはじめ、故あって木舟城下へ移った

ことが明らかにされている。其の後慶応二年に岡村へ移った。

参考:メディアが伝える城下物語 初瀬部乗侯著

「蓑のしずく一」

「蓑のしずく一」は、郷土史家・故中川幸作氏(高岡市上蓑)の遺作である。昭和三十五年七月喜寿を迎えた折、第一巻として「第一篇 村の生い立ち、第二編 神社、第三篇 仏閣、第四編 墓碑」の四編をまとめたもので、それぞれについて克明に調査研究されている。

木舟城及びその城下について、石黒氏城主時代の様子はこれを伝えるものが乏しい中で、希有の資料ともいえるのがこの「蓑のしずく」である。

参考:メディアが伝える城下物語 初瀬部乗侯著

高橋市長様からのご祝辞

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 木舟城跡保存会のホームページの開設にあたりまして、一言お祝いを申し上げます。

このホームページの作成にあたり、ご尽力されました保存会の皆様に対し、深く敬意と感謝を申し上げます。

木舟城は、寿永3年(1184)に石黒太郎光弘が築城し、天正13年(1585)の大地震により壊滅的な被害を受けるまで存続した、中世においては珍しい平城です。近年行われた調査では、城下町が中世の北陸道沿道の広い範囲に形成されていたことを確認しております。

このホームページの開設を機に、木舟城の歴史的価値や魅力について再認識するとともに、広く周知されることを期待しております。

木舟城と尾張石黒氏

石黒秀夫氏記

愛知県名古屋市北区如意に如意山瑞応寺というお寺があります。門前に「南朝忠臣石黒重行之蹟」の碑が建っており、側の名古屋市の案内板では「石黒重行の墓・重行は越中国(富山県)貴船の城主石黒重之の子、父祖の志を継いで南朝に仕え、足利氏と戦って敗れ、一時奥州に逃れた。明徳4年(1393)長谷川重行と名乗ってこの地に住み、後に斯波氏に属して味鋺・如意の領主となった。夢想国師の徳を慕い瑞竜寺(後、瑞応寺)の七堂伽藍を造営、晩年剃髪して宗円居士と改めた。墓はこの寺の墓地にある 名古屋市教育委員会」とあります。

お寺の墓地の案内では、重行は越中木船城主の孫とあり明徳4年如意の里に隠れ住んだ。そして敵方の追手から逃れるため母方の姓、長谷川重行を名乗った。永享9年(1437)88歳で亡くなり寺の開基となったとある。

近所に大井神社があるが、重行が奥州から如意に来る際、奥州(宮城県)塩釜六所大明神の分霊を奉斉し大井神社に合祀したといわれている。重行の子朝房が嘉吉2年(1442)に本殿を再建したことを記した棟札が残っている。また、重行より8代後の善九郎重成は長久手合戦のおり、武功有ってのちに尾張の徳川家に仕え、また瑞応寺も再興した。

瑞応寺IMG_2069

石黒重行の蹟IMG_2065

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大井神社IMG_2046

参考:1)「尾張徇行記」2)「楠町史」3)「北区史」

宗良親王と木舟城

石黒秀夫氏記

宗良親王

木舟城跡城山の「木舟城跡」碑の隣にかつて大滝・本領地内にあった道標が建っています。文字が読取りにくいが次のように刻んである。(木舟城跡 是ヨリ西南一四八五米 南朝忠臣石黒越中守宗良親王ヲ迎エ奉リシ所也 四位中将石黒大介書・・以下略)これは昭和13年3月に大滝村木舟城址保存会によって建てられたものです。碑文は名古屋の陸軍軍医だった石黒大介中将によるものです。南北朝時代、木舟城に南朝に味方する城主の石黒重之が宗良親王を迎え入れた所と案内しています。

宗良親王(むねよし/むねなが1311-1385)とは南北朝時代の南朝(吉野)の中心にあった後醍醐天皇の第八皇子で遠江国の井伊城に拠ったが、足利方に攻められ駿河、信濃、甲斐、美濃、越後を転々とし、「興国3年冬(1341)越中国に就き、奈呉浦貴船城主石黒越前守重之の館に入らせたもふ(遠江国風土記伝)」とし同5年の頃まで越中に留まり信濃に移られた。(重之・・・信濃宮伝では重定)

奈呉ノ浦の位置は現在の射水市富山新港~伏木富山港辺りなので、どのように木舟城に入城なったかは不明です。宗良親王は各地で和歌を詠まれ「新葉和歌集」や「李花集」に知られており越中滞在中の歌も数首、載っています。

関連で名古屋市北区に石黒重行(重之の孫)の遺跡として大井神社と瑞應寺があり、瑞應寺墓地に石黒重行のお墓もあります。末裔の石黒姓が多くあります。

参考:1)「信濃宮伝」2)「遠江国風土記伝」3)「浪合記」

月見の宴

tukiminoen

平成25年9月15日石黒秀夫氏をお招きし、石黒家の由来地など写真にてわかりやすくご紹介いただきました。同講演会には多くの方にご参加いただきました。