わが村の発祥沿革について、今一つ閑却してはならないのは字古町である。古町というのは甚右エ門川(中川の下流)の右岸で、福岡町、砺波市間の県道が其の中間を貫通している。現在はこの地区に五軒が県道をはさんで聚楽的にたちならんでいるが、それまでは一軒の家もなく、もとより県道もなく、広い田んぼの中に円錐形の塚が三本の杉の木を目じるしに雑木に包まれて立って居るのと、其の少し東北に田一枚をへだてて村の共同墓地が設けられて居るのみで、秋風徒らにとぐろを吹くさびしいところであった。けれども、此の地区こそは此村の沿革と深い関係を持つ由緒ある地区で、字古町の地名がかつての町立ちを想像させる強い語感を持っている。此の地区は、古屋敷や村中への入植者が神社を中心として開墾に専念し純農村を建設してきたのに対し、寺院宝性寺を中心として門前町を建設してきたところに特異性がある。
宝性寺塚の碑面に刻まれた碑文によると、今の岡村宝性寺第十七世乗覚が嘉永五年(1852年)に村人の協力を得てかつての宝性寺跡に碑を建てたもので、
1.岡村の宝性寺は昔は上蓑にあったもので、はじめは天台宗であった
2.寛正の頃に長谷部信連の後裔信貞なるものが真宗に改宗した
3.天正のはじめ、故あって木舟城下へ移った
ことが明らかにされている。其の後慶応二年に岡村へ移った。
参考:メディアが伝える城下物語 初瀬部乗侯著