「伊藤次右衛門」について

石黒秀夫氏記

天正9年(1581)7月、木舟城の石黒左近成綱は、織田信長に呼び出され家臣30騎と安土に向かった。長浜まで行ったところで、呼び出された目的を自分たちが殺されるとの様子を察して、宿に留まっていたところ、信長の命令を受けた家来の惟住五郎左衛門(丹羽長秀)により攻められて石黒主従十七人が死亡する。

信長の家臣だった太田和泉守牛一が記載した「信長公記」に、この事件の記載があり、城主石黒左近のほかに家老石黒与左衛門・伊藤次右衛門・水巻采女佐らの名前がある。

「越中志徴」や「越登賀三州志」の中にも、「信長記」や「織田眞記」から引用してこの事件を載せている。「信長記」、「織田眞記」は「信長公記」を元にしているようです。

家老石黒与左衛門・・与三右衛門(庄城に居城・寛文十年書上帳)と同一か。

家老伊藤次右衛門・・長浜での左近一行の謀殺事件以外には登場していない。

●「信長公記」 巻十四 太田和泉守 これを綴る

天正九年辛巳

七月六日、越中国木舟城主、石黒左近家老、石黒与左衛門、伊藤次右衛門、水巻采女佐、一門三十騎ばかりにて上国。佐和山にて、惟住五郎左衛門生害の儀、申し付けらるべきのところに、長浜まで参り、風をくり、罷り越さず。然る間、長浜へ罷り参じ、石黒左近、町屋にこれあるを、取り籠め、屋の内にて、歴々十七人生害候。惟住の者も、能き者二、三人討死候。

(織田信長の旧臣太田和泉守牛一 著、慶長15年(1610)完成84歳、全16巻)

(備考;「信長記」慶長16年頃(1611)小瀬甫庵の作、「織田眞記」正徳4年(1713)織田長清の著、「越中志徴」森田柿園(1823-1908)の著、「越登賀三州志」文化・文政年間(1804-1829) 富田景周の著)

「伊藤次右衛門」について への2件のコメント

  1.  このたびは、木舟城とは関係あるものの、私的な関心からの質問にたいしまして、思いがけず、石黒秀雄様よりご丁寧にご返事いただきまして、本当にありがとうございました。
     石黒城主をめぐる、この「事件」につきまして、城主を含め、ほとんどの家臣が殺害されたという記述もあり、真相はどうなのか、という疑問をもっておりました。私につながる家系図の一番最初に、砺波市の或る村に「家老伊藤次右衛門が天正9年に閑居した」という注記がありまして、前述の事件で死亡していると、その後の子孫も存在しないことになりますから。また、「閑居」がおそらく、この「事件」と関係があるだろうと推測しています。
     今回、石黒様のご指摘によりまして、「信長公記」にその「事件」の説明根拠があったこと、またその関係文献なども詳しく挙げていただき、大変興味深く読ませていただきました。現在のところ、古文書は全く門外漢ですので、専門家の方の研究成果について勉強させていただくなかで、私の関心にかなう事実を探し出すことになります。また木舟城跡保存会の活動にも機会がありましたら参加したいと思います。
     最後になりましたか、今回、石黒様に仲介の労をいただきました、会長の島次武雄様にも感謝申し上げます。
       神戸博一

  2. 以前、神戸様がコメントされていた伊藤次右衛門と系図の件です。鷹栖(たかのす)村史(現・砺波市鷹栖)に伊藤次右衛門の系図記載がありました。それに依ると「伊藤次右エ門、木舟城主石黒左近 二番家老とし三番家老水巻采女の息女をめとり、天正九年この地に閑居」とあります。であれば信長に殺されることなく越中に戻っていたことになります。同じく家老の石黒与左衛門も生還して岡村(現・小矢部市)で帰農していますので、伊藤次右衛門も鷹栖に住まいしたのでしょうか。子孫には焼馬(伊藤)弥右衛門(元和元年下焼馬開墾十八石)は、入村して開墾さらにその子、弥右衛門(明歴年中庄川疏水開墾八十石、若宮造営)も開墾に尽力しています。明治・大正年代までの多くの子孫、分家も絶家も改姓も移転も有り色々と記載しています。
    ちなみに紋所は「丸に蔦と剣かたばみ」ありと記しています。出所も含め興味あることで、さらに研究したいと思います。

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