月別アーカイブ: 3月 2014

高橋市長様からのご祝辞

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 木舟城跡保存会のホームページの開設にあたりまして、一言お祝いを申し上げます。

このホームページの作成にあたり、ご尽力されました保存会の皆様に対し、深く敬意と感謝を申し上げます。

木舟城は、寿永3年(1184)に石黒太郎光弘が築城し、天正13年(1585)の大地震により壊滅的な被害を受けるまで存続した、中世においては珍しい平城です。近年行われた調査では、城下町が中世の北陸道沿道の広い範囲に形成されていたことを確認しております。

このホームページの開設を機に、木舟城の歴史的価値や魅力について再認識するとともに、広く周知されることを期待しております。

木舟城と尾張石黒氏

石黒秀夫氏記

愛知県名古屋市北区如意に如意山瑞応寺というお寺があります。門前に「南朝忠臣石黒重行之蹟」の碑が建っており、側の名古屋市の案内板では「石黒重行の墓・重行は越中国(富山県)貴船の城主石黒重之の子、父祖の志を継いで南朝に仕え、足利氏と戦って敗れ、一時奥州に逃れた。明徳4年(1393)長谷川重行と名乗ってこの地に住み、後に斯波氏に属して味鋺・如意の領主となった。夢想国師の徳を慕い瑞竜寺(後、瑞応寺)の七堂伽藍を造営、晩年剃髪して宗円居士と改めた。墓はこの寺の墓地にある 名古屋市教育委員会」とあります。

お寺の墓地の案内では、重行は越中木船城主の孫とあり明徳4年如意の里に隠れ住んだ。そして敵方の追手から逃れるため母方の姓、長谷川重行を名乗った。永享9年(1437)88歳で亡くなり寺の開基となったとある。

近所に大井神社があるが、重行が奥州から如意に来る際、奥州(宮城県)塩釜六所大明神の分霊を奉斉し大井神社に合祀したといわれている。重行の子朝房が嘉吉2年(1442)に本殿を再建したことを記した棟札が残っている。また、重行より8代後の善九郎重成は長久手合戦のおり、武功有ってのちに尾張の徳川家に仕え、また瑞応寺も再興した。

瑞応寺IMG_2069

石黒重行の蹟IMG_2065

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大井神社IMG_2046

参考:1)「尾張徇行記」2)「楠町史」3)「北区史」

宗良親王と木舟城

石黒秀夫氏記

宗良親王

木舟城跡城山の「木舟城跡」碑の隣にかつて大滝・本領地内にあった道標が建っています。文字が読取りにくいが次のように刻んである。(木舟城跡 是ヨリ西南一四八五米 南朝忠臣石黒越中守宗良親王ヲ迎エ奉リシ所也 四位中将石黒大介書・・以下略)これは昭和13年3月に大滝村木舟城址保存会によって建てられたものです。碑文は名古屋の陸軍軍医だった石黒大介中将によるものです。南北朝時代、木舟城に南朝に味方する城主の石黒重之が宗良親王を迎え入れた所と案内しています。

宗良親王(むねよし/むねなが1311-1385)とは南北朝時代の南朝(吉野)の中心にあった後醍醐天皇の第八皇子で遠江国の井伊城に拠ったが、足利方に攻められ駿河、信濃、甲斐、美濃、越後を転々とし、「興国3年冬(1341)越中国に就き、奈呉浦貴船城主石黒越前守重之の館に入らせたもふ(遠江国風土記伝)」とし同5年の頃まで越中に留まり信濃に移られた。(重之・・・信濃宮伝では重定)

奈呉ノ浦の位置は現在の射水市富山新港~伏木富山港辺りなので、どのように木舟城に入城なったかは不明です。宗良親王は各地で和歌を詠まれ「新葉和歌集」や「李花集」に知られており越中滞在中の歌も数首、載っています。

関連で名古屋市北区に石黒重行(重之の孫)の遺跡として大井神社と瑞應寺があり、瑞應寺墓地に石黒重行のお墓もあります。末裔の石黒姓が多くあります。

参考:1)「信濃宮伝」2)「遠江国風土記伝」3)「浪合記」