石黒秀夫氏記
愛知県名古屋市北区如意に如意山瑞応寺というお寺があります。門前に「南朝忠臣石黒重行之蹟」の碑が建っており、側の名古屋市の案内板では「石黒重行の墓・重行は越中国(富山県)貴船の城主石黒重之の子、父祖の志を継いで南朝に仕え、足利氏と戦って敗れ、一時奥州に逃れた。明徳4年(1393)長谷川重行と名乗ってこの地に住み、後に斯波氏に属して味鋺・如意の領主となった。夢想国師の徳を慕い瑞竜寺(後、瑞応寺)の七堂伽藍を造営、晩年剃髪して宗円居士と改めた。墓はこの寺の墓地にある 名古屋市教育委員会」とあります。
お寺の墓地の案内では、重行は越中木船城主の孫とあり明徳4年如意の里に隠れ住んだ。そして敵方の追手から逃れるため母方の姓、長谷川重行を名乗った。永享9年(1437)88歳で亡くなり寺の開基となったとある。
近所に大井神社があるが、重行が奥州から如意に来る際、奥州(宮城県)塩釜六所大明神の分霊を奉斉し大井神社に合祀したといわれている。重行の子朝房が嘉吉2年(1442)に本殿を再建したことを記した棟札が残っている。また、重行より8代後の善九郎重成は長久手合戦のおり、武功有ってのちに尾張の徳川家に仕え、また瑞応寺も再興した。
参考:1)「尾張徇行記」2)「楠町史」3)「北区史」