カテゴリー別アーカイブ: 木舟城

赤丸浅井城と木船城

開一男氏記

「貴船城古今誌」によると大滝は越中吉岡庄の地頭吉岡成佐が開発したとあり、この居館は赤丸隣接地の吉岡谷にあったと伝えられ、赤丸の浅井城には南北朝の頃、石黒光弘の弟の次郎光景が拠ったとされています。※「赤丸名勝誌」国立国会図書館  

後醍醐天皇の後院領「越中吉岡庄」は大滝も含み、木船城と浅井城は常に連携していたようです。
延喜式内社赤丸浅井神社には「京都鞍馬寺」が勧請され、木船には「京都貴船神社」が勧請された様です。「越中吉岡庄」の地頭「吉岡成佐」については「吾妻鑑」に源頼朝の書状が掲載されており、「越中吉岡庄」の地頭を辞めさせられた経過が載っています。

木舟城の想像模型

以下の写真は、出口 憲史氏が半年かけて制作された木舟城の模型(想像されたもの)を撮影したものです。
歴史文献で紹介される木舟城周辺の城下町の位置など少し異なる点もありますが、天正大地震にて消え去った木舟城の様子を立体的に想像できる 貴重な作品(モチーフ)と思います。ご興味がある方はお問い合わせフォームにてご連絡ください。上記の想像模型をご覧いただける日程・場所等を含めて回答させていただきます。

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木舟城は複郭式の平城

明治8年に作成された「木舟村地引絵図」には木舟城跡と周辺の地割や小字名が記されており、城の規模や構造の実態を知る大きな手がかりとなる。この絵図中、畑地として確認される微高地が城山と呼ばれている城跡である。この微高地は2つに分かれ、「本丸」「二ノ丸」と呼ばれており、現状の城跡からは小規模な城のように見える。しかし、地引絵図の地割からはこの微高地を含んだほぼ方形の城郭平面図が推測される(図1)。

木舟城跡周辺

      図1

この主郭と思われる方形の城郭を取り巻くように複数の外郭と堀(水濠)が設けられていたと推測される。この方形の主郭(A郭)は「越中古城記」などに記されている本丸(東西六十間、南北七十五間)と推測され、北の郭(B郭)と南の郭(C郭)は二の丸(東西四十五間、南北五十間)、三の丸(東西三十間、南北六十間)と推測される。このことから、木舟城は複郭式の構造をもつ平城であったと推測される(図2)。

木舟城の構造

      図2

参考文献:「メディアが伝える城下物語」初瀬部乗侯著

義仲・巴と越中武士団(石黒党と宮崎党等)

義仲・巴と越中武士団(石黒党・宮崎党等) 

木舟城は、有名な砺波山(倶利伽羅峠)を舞台にした源氏と平氏の倶利伽羅合戦(寿永2年5月)に、木曽義仲軍に味方して源氏軍の勝利に尽力した越中武士団の、石黒太郎光弘が寿永3年(1184)に築城したと伝えられています。

石黒太郎光弘(生没年不詳)

 富山県西部、南砺市~高岡市の広範囲にわたる武士団・石黒党を形成し大きな勢力をもつ。平家物語では、燧ケ城の戦い、安宅の戦い、倶利伽羅合戦で活躍しており、特に源平盛衰記に詳しく描かれている。本拠地である石黒荘は平安時代初めから続く大変古い荘園で、後に八条女院領となり、都との関係も深かったと見られる。

宮崎太郎長康(生没年不詳)

 富山県朝日町を中心とし、新潟県糸魚川市付近も勢力下におさめる武将。宮崎党を率いる。入善地域の荘園の他、宮崎港の交易などで勢力を強める。平家物語では、燧ケ城の戦い、安宅の戦い、倶利伽羅合戦での奮闘が記されている。特に長門本では、家臣団や義仲との詳細なエピソードが紹介されている。

“まんがでわかる義仲・巴と越中武士団”発行:富山県知事政策局 2010年10月より抜粋。

 漫画は、上田市出身の歴史ライターで漫画家の、西川かおりさん

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宗良親王と木舟城

石黒秀夫氏記

宗良親王

木舟城跡城山の「木舟城跡」碑の隣にかつて大滝・本領地内にあった道標が建っています。文字が読取りにくいが次のように刻んである。(木舟城跡 是ヨリ西南一四八五米 南朝忠臣石黒越中守宗良親王ヲ迎エ奉リシ所也 四位中将石黒大介書・・以下略)これは昭和13年3月に大滝村木舟城址保存会によって建てられたものです。碑文は名古屋の陸軍軍医だった石黒大介中将によるものです。南北朝時代、木舟城に南朝に味方する城主の石黒重之が宗良親王を迎え入れた所と案内しています。

宗良親王(むねよし/むねなが1311-1385)とは南北朝時代の南朝(吉野)の中心にあった後醍醐天皇の第八皇子で遠江国の井伊城に拠ったが、足利方に攻められ駿河、信濃、甲斐、美濃、越後を転々とし、「興国3年冬(1341)越中国に就き、奈呉浦貴船城主石黒越前守重之の館に入らせたもふ(遠江国風土記伝)」とし同5年の頃まで越中に留まり信濃に移られた。(重之・・・信濃宮伝では重定)

奈呉ノ浦の位置は現在の射水市富山新港~伏木富山港辺りなので、どのように木舟城に入城なったかは不明です。宗良親王は各地で和歌を詠まれ「新葉和歌集」や「李花集」に知られており越中滞在中の歌も数首、載っています。

関連で名古屋市北区に石黒重行(重之の孫)の遺跡として大井神社と瑞應寺があり、瑞應寺墓地に石黒重行のお墓もあります。末裔の石黒姓が多くあります。

参考:1)「信濃宮伝」2)「遠江国風土記伝」3)「浪合記」