第29回特別展「木舟城と石黒氏」

高岡市福岡歴史民俗資料館にて、特別展「木舟城と石黒氏」が現在、開催されています。
-利波臣氏に出自し 中世の有力武士団に成長する石黒氏のその軌跡を追う—

会期と時間は、平成28年9月17日から11月27日で、午前9時から午後4時30分です。
初めて公開される珍しい資料も多数ありますので、ぜひご覧ください。
入館料・有料、学芸員による展示解説3回(9月17日・10月8日・11月12日の
午後)、休館日・毎月曜日・祝日の翌日(ただし9月19日・10月10日は開館)

詳細は以下の資料をご参照ください。
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木舟城まつり

木舟城まつりが以下の通り、開催されます。

日時 10月11日(日)15時~

場所 木舟城址公園

武者行列は、17時30分~18時00分まで、鐘泉寺から木舟城址公園まで約600m松明を持つ武者が行進します。行進は以下の地図で紹介する区間となります。是非、ご覧ください。

武者行列スタート場所へのアクセス

のぼり旗の設営

「富山県指定史跡 木舟城跡」のぼり旗を2015年7月20日に設営。10月11日の木舟城まつり開催まで引き続き掲揚する予定。

のぼり旗

赤丸浅井城と木船城

開一男氏記

「貴船城古今誌」によると大滝は越中吉岡庄の地頭吉岡成佐が開発したとあり、この居館は赤丸隣接地の吉岡谷にあったと伝えられ、赤丸の浅井城には南北朝の頃、石黒光弘の弟の次郎光景が拠ったとされています。※「赤丸名勝誌」国立国会図書館  

後醍醐天皇の後院領「越中吉岡庄」は大滝も含み、木船城と浅井城は常に連携していたようです。
延喜式内社赤丸浅井神社には「京都鞍馬寺」が勧請され、木船には「京都貴船神社」が勧請された様です。「越中吉岡庄」の地頭「吉岡成佐」については「吾妻鑑」に源頼朝の書状が掲載されており、「越中吉岡庄」の地頭を辞めさせられた経過が載っています。

「伊藤次右衛門」について

石黒秀夫氏記

天正9年(1581)7月、木舟城の石黒左近成綱は、織田信長に呼び出され家臣30騎と安土に向かった。長浜まで行ったところで、呼び出された目的を自分たちが殺されるとの様子を察して、宿に留まっていたところ、信長の命令を受けた家来の惟住五郎左衛門(丹羽長秀)により攻められて石黒主従十七人が死亡する。

信長の家臣だった太田和泉守牛一が記載した「信長公記」に、この事件の記載があり、城主石黒左近のほかに家老石黒与左衛門・伊藤次右衛門・水巻采女佐らの名前がある。

「越中志徴」や「越登賀三州志」の中にも、「信長記」や「織田眞記」から引用してこの事件を載せている。「信長記」、「織田眞記」は「信長公記」を元にしているようです。

家老石黒与左衛門・・与三右衛門(庄城に居城・寛文十年書上帳)と同一か。

家老伊藤次右衛門・・長浜での左近一行の謀殺事件以外には登場していない。

●「信長公記」 巻十四 太田和泉守 これを綴る

天正九年辛巳

七月六日、越中国木舟城主、石黒左近家老、石黒与左衛門、伊藤次右衛門、水巻采女佐、一門三十騎ばかりにて上国。佐和山にて、惟住五郎左衛門生害の儀、申し付けらるべきのところに、長浜まで参り、風をくり、罷り越さず。然る間、長浜へ罷り参じ、石黒左近、町屋にこれあるを、取り籠め、屋の内にて、歴々十七人生害候。惟住の者も、能き者二、三人討死候。

(織田信長の旧臣太田和泉守牛一 著、慶長15年(1610)完成84歳、全16巻)

(備考;「信長記」慶長16年頃(1611)小瀬甫庵の作、「織田眞記」正徳4年(1713)織田長清の著、「越中志徴」森田柿園(1823-1908)の著、「越登賀三州志」文化・文政年間(1804-1829) 富田景周の著)

木舟城を偲ぶ会

木舟城を偲ぶ会を11月23日に石黒秀夫氏を講師に開催。地域住民を中心に約100人が木舟公民会に参加された。「木舟城にゆかりの人物と町・寺院」をテーマに後醍醐天皇の皇子、宗良親王と石黒氏の関わり、富山県西部各地にゆかりの寺や史跡が多く残っている点を画像を中心にわかりやすくご紹介いただいた。

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木舟城の想像模型

以下の写真は、出口 憲史氏が半年かけて制作された木舟城の模型(想像されたもの)を撮影したものです。
歴史文献で紹介される木舟城周辺の城下町の位置など少し異なる点もありますが、天正大地震にて消え去った木舟城の様子を立体的に想像できる 貴重な作品(モチーフ)と思います。ご興味がある方はお問い合わせフォームにてご連絡ください。上記の想像模型をご覧いただける日程・場所等を含めて回答させていただきます。

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木舟城は複郭式の平城

明治8年に作成された「木舟村地引絵図」には木舟城跡と周辺の地割や小字名が記されており、城の規模や構造の実態を知る大きな手がかりとなる。この絵図中、畑地として確認される微高地が城山と呼ばれている城跡である。この微高地は2つに分かれ、「本丸」「二ノ丸」と呼ばれており、現状の城跡からは小規模な城のように見える。しかし、地引絵図の地割からはこの微高地を含んだほぼ方形の城郭平面図が推測される(図1)。

木舟城跡周辺

      図1

この主郭と思われる方形の城郭を取り巻くように複数の外郭と堀(水濠)が設けられていたと推測される。この方形の主郭(A郭)は「越中古城記」などに記されている本丸(東西六十間、南北七十五間)と推測され、北の郭(B郭)と南の郭(C郭)は二の丸(東西四十五間、南北五十間)、三の丸(東西三十間、南北六十間)と推測される。このことから、木舟城は複郭式の構造をもつ平城であったと推測される(図2)。

木舟城の構造

      図2

参考文献:「メディアが伝える城下物語」初瀬部乗侯著

大滝長寿会様による草刈り

大滝長寿会様による草刈りが6月19日に行われました。多くの方にご協力をいただきました。深く感謝申し上げます。

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義仲・巴と越中武士団(石黒党と宮崎党等)

義仲・巴と越中武士団(石黒党・宮崎党等) 

木舟城は、有名な砺波山(倶利伽羅峠)を舞台にした源氏と平氏の倶利伽羅合戦(寿永2年5月)に、木曽義仲軍に味方して源氏軍の勝利に尽力した越中武士団の、石黒太郎光弘が寿永3年(1184)に築城したと伝えられています。

石黒太郎光弘(生没年不詳)

 富山県西部、南砺市~高岡市の広範囲にわたる武士団・石黒党を形成し大きな勢力をもつ。平家物語では、燧ケ城の戦い、安宅の戦い、倶利伽羅合戦で活躍しており、特に源平盛衰記に詳しく描かれている。本拠地である石黒荘は平安時代初めから続く大変古い荘園で、後に八条女院領となり、都との関係も深かったと見られる。

宮崎太郎長康(生没年不詳)

 富山県朝日町を中心とし、新潟県糸魚川市付近も勢力下におさめる武将。宮崎党を率いる。入善地域の荘園の他、宮崎港の交易などで勢力を強める。平家物語では、燧ケ城の戦い、安宅の戦い、倶利伽羅合戦での奮闘が記されている。特に長門本では、家臣団や義仲との詳細なエピソードが紹介されている。

“まんがでわかる義仲・巴と越中武士団”発行:富山県知事政策局 2010年10月より抜粋。

 漫画は、上田市出身の歴史ライターで漫画家の、西川かおりさん

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