木舟屋

富山県人 平成26年3月号掲載内容より

先祖の「奉納刀剣」82年ぶりの発見に寄せて 齊藤博氏

我が社の創業者・石黒兵太郎のルーツは、平安時代の石黒庄に由来する「南砺石黒氏」であり、遡ると越中権守を務め仁和寺の石黒庄の庄官として土着した豪族・藤原(齊藤)則高に至り、さらには奈良時代の大織冠・藤原鎌足に及ぶと言われております。その「石黒氏」の中で、1183年の源平倶利伽羅合戦で名を残した福光の石黒太郎光弘は、小矢部川を下って要衝の福岡・木舟に木舟城を築き、「石黒氏」は代々城主として呉西の有力な地位にありましたが、戦国時代に越後・上杉謙信と同盟関係にあり、謙信の急逝で運命が尽きております。1581年織田信長に近江佐和山城に呼ばれ、長浜で丹羽長秀に石黒成綱が家臣17名と共に謀殺(自害)され、「石黒氏」400年の歴史は閉じました。しかし、木舟城を追われた石黒一族でありますが、逃げ帰った分家の家老・石黒与右衛門が身を隠し、現小矢部市の岡で農民となり代々肝煎を務めております。江戸時代の1642年に加賀藩が小矢部御蔵を現小矢部市の福町村に設けますが、1661年に与右衛門の分家の木舟屋三右衛門が西福町で木舟に因んだ屋号「木舟屋」の米穀商を始めております。その8代目の石黒弥平の時に明治を迎え、祖先ゆかりの「石黒」の姓を初めて名乗ります。我が社の創業者の石黒兵太郎は弥平の弟で、木舟屋の9代目に当たりますが、兄弟揃って文明開化の東京に目を向けています。弟の石黒兵太郎は、当時宿場町であった石動町の将来を憂慮し、郷土振興のために何か産業を興したいと思い、改新主義運動のために東京に出た明治20年頃に横浜で洋館建築の外壁に煉瓦が大量に使用されていることから、鉄道・北陸線の延伸中で今後の煉瓦需要を予測、煉瓦事業に私財を投げ打つ決心をし、堺から20余名の職人を呼んで4年間の試行錯誤の末、明治26年に煉瓦製造販売工事業「石黒商店」を創業しました。この赤レンガの事業は順次進展し、石動町の雇用拡大に貢献していきますが、兵太郎が明治39年に45歳の若さで逝去して転機を迎えました。一方、兄の石黒弥平は米穀商としての飛躍を期し、明治20年頃に東京・神田に出て「北国屋」の屋号にて基盤固めの最中の明治29年に亡くなり、幼少の息子の石黒従之が継いでおります。10年後に弟の石黒兵太郎が亡くなり、甥っ子の従之が2代目兵太郎を襲名、「石黒商店」の事業を継承することになりましたが、「北国屋」との2本立て事業は大変困難でありましたので、明治41年幹部の水牧平助・片岡藤太郎・前田次三郎の3名に「石黒商店」の事業を譲渡し、「北国屋」に専念した経緯であります。そこで、石黒弥平の興した「北国屋」の歩みを辿りますと、神田の万世橋近くで明治の中期・大正・昭和の戦前まで大変繁盛して東京でも指折りの米屋になりましたが、2代目兵太郎は昭和15年に逝去しました。その後、跡取りの国太郎さんが戦死されたり空襲で店を焼かれたりして、戦後は食糧公団の移転に合わせ杉並に移住、本家を継がれた末弟の庸五郎さんが「石黒米穀店」として継承されましたが、平成4年に亡くなられ、今は奥様の澄子さんが店を守り、神田の跡地は家電量販店に貸与中であります。一方「石黒商店」は、幹部3名の2代にわたる結果・努力により、大正に入り「合名会社石黒商店」へ、昭和に入って「石黒合名会社」と近代化し、戦後は「石黒煉瓦工業株式会社」「石黒産業株式会社」「石黒建設株式会社」等に分社して存続しておりますが、煉瓦は110年にわたり資材供給を続け、社会貢献して、時代の変遷で10年前に撤退を余儀なくされております。2代目石黒兵太郎が昭和6年4月16日に小矢部市福町神明宮(1570年創祀)の春祭りに家運長久を祈って、先祖伝来の肥前の名工・河内守正廣(1628~1699)の刀剣一振(50センチ)を奉納、82年ぶりに大峯宮司が本殿の下陣から発見、とのことであります。早速に東京・杉並の2代目兵太郎の末裔の皆さんにお知らせしましたら、もう一刀の奉納逸話が出て参り、大変驚いた次第であります。それは福町神明宮の奉納の話はご存じなかったのですが、その奉納刀剣した翌日に、「石黒家」のルーツの一つである福岡・木舟城址前の貴布袮神社に、もう一振りの快刀(女性用)を奉納されており、20年前に家族一同が神社で確認した写真を見せて頂き、先人の深い思いを知りました。

木舟屋 への1件のコメント

  1. 石黒 克茂

    本日、このサイトを発見いたしました。 大変興味深く、拝読いたしました。
    文中にあります 「石黒兵太郎 氏」は当家の本家筋にあたります。 東京で米穀商を営んでおられました「庸五郎」さんは二十数年前にご先祖の墓参りを兼ねて 当家を訪ねて来られた事を記憶しております。
    その後、当方の親族が東京のお住まいに伺ったこともあるようですが
    その親族も亡くなり、ご家族の方に連絡を取る手段がなくなり 最近調査を開始したところでした。
    本日、このサイトを拝見して 奥様がご健在であることがわかりほっとしております。
    木舟屋ご先祖の墓は岡の宝性寺にあり、私どもが墓守を行っている格好となっています。

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