歴史散策

崎田峰彦氏記

木舟城主 前田秀継と利長の高岡開町

前田秀継(諱・秀次)は前田利家の末弟である。利家に仕え秀継は北陸征伐の軍を率いる。越前府中において千石を受け、天正11年(1583年)には四万石を領し加賀津幡城に入る。さらに井波、砺波地方を歴戦し、今石動城(小矢部市)から木舟城主に転じるが、天正13年11月29日夜、大地震が襲来、夫妻ともにその木舟城で圧死する悲運の人物である。それは前田利長が高岡を開町する24年前のことである。

1.石黒氏400年の木舟城が前田家の居城となる

この木舟城は寿永3年(1184年)石黒氏が築城したもので、戦国の世には珍しい平野部の城である。石黒氏は木舟城で約400年間砺波の国人領主として栄えた。しかし戦国末期の石黒氏にも天下の趨勢が及ばざることはなく、天正9年(1581年)越後上杉氏の庇護にあったが石黒氏は織田軍に討たれる。さらに越中上杉軍を退けた織田軍の将、佐々成政は木舟城に入り石黒家は崩壊し離散する。その後信長の死去により、後継となった豊臣秀吉との対立を深めた佐々成政は、天正13年(1585年)5月木舟城守将、佐々平左衛門をもって、今石動の小矢部川原で豊臣軍の将、前田秀継討伐を仕掛けるも大敗する。成政は木舟城から追われ富山城に撤退する。その8月、北陸征伐における秀継らの功積で、兄前田利家は秀吉より越中西三郡を加増され、弟秀継を木舟城で封建、嫡男利長を高岡の守山城に置き守りを固める。木舟城主秀継にとってこの天正13年は、歴戦と天災(木舟地震)が待ち受ける、まさに運命の年を、越中木舟の地で迎えていたのである。

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2.天正の木舟大地震は神の祟り? 前田秀継は無信仰者?

秀継は、多大な軍功から神をも恐れぬ武将として知られていた。それを物語るひとつの伝説がある。―ある日、秀継は飼い犬と木舟明神の御神体を繋ぎ合わせ、水中に投げ入れて言う「神、奇特あれば水中より上がるべし、犬、神に勝たば死を逃るべし」と、すると尊像は沈み、犬は岸に泳ぎあがり、秀継大いに笑い「明神犬に劣れり」と嘲笑したと言う。その夜天正の大地震が起き、自らが圧死し天罰が下ったとされている。

この事で秀継は無信仰で冷淡な人物とされている。しかし自ら菅原姓を名乗り、北野天満宮縁起等を自筆し、「~、恒例之祭祀、不可怠者也。依為末代記録之所如件」として北野天満宮(南砺市)に奉納している。こうした天満宮縁起文が永伝寺や観音寺(小矢部市)にも所蔵されている。また天正11年には小矢部市の和沢神社など多くの神社を再建した記録がある。(石川郷土学会誌・所引)このことから秀継は信仰深い人物と推測される。木舟城の研究者、安達正雄先生は「木舟入城間もない秀継は、早急に領内の人心掌握に努めなければならず、無宗教、無神論者とは考えがたい、明神犬伝説が仮に事実であったならば、犬を自分に見立て、神を信じるとしながらも、自身の力が望むところであって欲しいと、信じたいことを信じる証が必要だったような気がする」と推測されている。自らの行く末の武運を占ったのであろうか。

3.大震災後の木舟城

地震で亡くなった秀継の後を継いだ子利秀は、当初木舟城下町の震災復興を目指し、地震の翌年には木舟の地で上洛する上杉景勝を宿泊させている。しかし利秀は、その1586年に木舟城下の復興を断念し、小矢部市の今石動城に帰城する。やがて木舟は廃城となり石動や髙岡への移転が始まる。高岡開町の慶長14年(1609年)以前の数年内に書かれたと思われる慶長日本総図(国会図書館蔵・ふるさと富山歴史館・富山新聞社-2001年-所収)には、いするぎ(石動)と守山の文字が見えるが(戦国の終焉・所引)まだ髙岡の文字は見えていない。おそらくその直後に利長の高岡入城があったと見られている。

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4.利長、富山城から高岡城に移転・高岡開町へ                ゆるやかな小矢部川は―高岡の舟運流通経済資本を確立

利長が高岡に開町する理由がある。それは小矢部川の地理的な優位性である。小矢部川の流路は短いが平野部において県内随一の緩流である。例えば常願寺川は河口から約40km地点で海抜900m前後である。他の県内河川はもっと高い。小矢部川は同様地点で海抜約70~80mから平野部に流れ込み、太平洋側の利根川に匹敵する位に高低差が少ない。緩流効果は上流への運送経費が特に安価となる。さらに小矢部西方の砺波山や宝達山脈が、庄川の氾濫を遮る形で小矢部川に沿って流路を安定させている。そして庄川の氾濫軌道は、小矢部川支線を形成し、灌漑用水と河川交通網を形成するに至り、舟運交通の往来を促した。小矢部川は、地域河道網の安定、水量保全の容易性、治水事業の負担軽減、農業生産の安定性や防火等、領地の安定的な発展の環境が整っていたのである。

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小矢部川を越中征伐で知り尽くしていた―小矢部左岸の守山城から高岡に入り越中に攻め入ったとされている―利長は、隠居後の富山城での治水や火災、渇水の実体験と重ね合わせ、約400年にわたる木舟城継続の要因を、小矢部川の存在であると再認識していた。そして富山城より、小矢部川に近い高岡城を本拠地として選んだと考えられる。高岡入城後、利長は舟運と陸路の交通網整備に取り掛かり、千保川と小矢部川の合流点、高岡の木町港(現在の地場産業センター周辺)を拠点に舟運交通体系を確立させた。その河川交通網はさらに中小河川、支線網と連携し砺波、射水圏の農業を中心とした地域経済に浸透し、舟運経済資本を形成するに至った。それが今日の商業都市髙岡の礎になっている。高岡開町から400年の歴史は、小矢部川と庄川の両河川で形成された、複合河川文化であり、舟運経済資本との総合遺産と言えるものであろう。

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