長塚、長かん三昧

 

福岡駅の東側に隣接して福岡町下蓑の共同墓地があった。昭和三十一年十二月、此の墓地は株式会社富山製錬所の工場敷地として買収せられ、埋骨及工作物はすべて町の東西にある別の共同墓地を拡張してそこへ移されたので、今は跡形もなく原況を想像することさえ出来なくなった。此の共同墓地は、もとは火葬場も兼ねて居たもので、長かん三昧とも長塚三昧とも称した。此の長かん三昧の南、宝性寺塚から見て正西に接して長塚というのがあった。

宝性寺塚

今こそこの墓地及び長塚あたりは福岡町下蓑領であるが、昔は上蓑、下蓑、蓑島の別なく、一帯が概念的に宝性寺の領域と考えられて居たことであろう。

長谷部氏は信連までは長谷部氏を名乗って来たが、信連が遠江国長村に生まれたところから長氏を称したので、信連は長氏の始祖であるから宝性寺歴代も長氏を称したことであろう。だから、長塚とは長塚とは長氏の塚という意であろう。随って、長かん三昧も長家三昧とか長棺三昧とかの意で、その昔長塚宝性寺の火葬場であったのではあるまいか。

長塚

参考:メディアが伝える城下物語 初瀬部乗侯著

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