上記写真は、「富山県福岡町木舟城跡発掘調査報告」(福岡町教育委員会)から引用。
木舟城は、富山県高岡市福岡町木舟にある平城です。
現在は富山県史跡に指定されています。
この木舟城は、元暦元年(1184年)に木曽義仲に付いて1183年の倶利伽羅峠の戦いで活躍した越中国の豪族であった石黒光弘によって築かれています。それ以後石黒氏が城主となっています。石黒氏は越中国砺波郡を本拠にした豪族で、福光館を拠点としていました。
文明13年(1481年)8月には、越中国福光城主石黒光義が一向一揆の勢いが増してきていることを憂慮し、医王山惣海寺と組んで越中一向一揆勢の瑞泉寺(南砺市)門徒らを討伐しようとするが田屋川原の戦いで敗れ、石黒光義ら一族は安居寺で自害し石黒氏本家が衰退してしまいます。その後徐々に木舟石黒氏が勢力を強めていきます。
天文年間(1532年-1554年)には、木舟城主石黒左近将監が越中国安楽寺城(小矢部市安楽寺)を攻めています。安楽寺城主高橋與十郎則秋は、小矢部市野寺付近で敗死したと伝えられています。木舟城の石黒氏の力が増してきていた証拠でしょう。永禄9年(1566年)には、木舟城主石黒成綱が一向一揆方の小倉六右衛門が拠る越中国鷹栖館(南砺市鷹栖上島)並びに越中国勝満寺(小矢部市水島)を攻め、これらに放火しています。天正年間(1573年-1591年)には越中国中田城(高岡市中田)、越中国柴田屋館(南砺市柴田屋)を攻めています。柴田屋館は蓮沼城の支城ですが、城主の柴田久光は石黒成綱に攻め滅ぼされています。柴田久光の柴田屋館は、蓮沼城の支城ですが当時は蓮沼城には椎名康胤が拠っていて、一向一揆の拠点となっていたので、石黒氏は反一向一揆勢力であったことになります。
しかし天正2年(1574年)7月には上杉謙信に木舟城を攻め落とされて臣従したと思われます。
ただしそれ以前にも上杉氏に対する臣従、さらには離反していた可能性は高いでしょう。
当時は上杉氏はしばしば越中に侵攻していて、越中の諸勢力は織田氏に付くか上杉氏に付くかあるいは一向一揆と合流するかの駆け引きをしていたようです。
天正6年(1578年)には上杉謙信の死去を契機に成綱は上杉家を離反して織田信長方に付いています。
石黒成綱は、天正8年(1580年)2月、天正9年(1581年)4月と2度にわたって一向一揆勢の重要拠点で当時上杉方だった越中国安養寺御坊(勝興寺)を焼き討ちして焼亡させているのですが、その後勝興寺からの訴えにより上杉景勝配下の吉江宗信が木舟城を攻め落としています。ところが同年7月、成綱を始めとする石黒一門30人が信長に近江国佐和山城へと呼び出されています。成綱一行は、近江へ向かったのですが、信長の意図が石黒氏一行の暗殺である事に気づいて逃走を図ったのです。しかし、近江国長浜で丹羽長秀配下の兵に追いつかれて皆殺しに遭い、石黒氏は滅亡しています。
1581年)7月、織田方の圧力に抗し切れず吉江宗信が木舟城から海路で撤退しています。
その結果、木舟城は織田方の手に落ちて信長の重臣である佐々成政の支配下に入り、成政は木舟城に重臣佐々平左衛門を入れています。天正12年(1584年)頃には佐々成政が秀吉方の前田氏と対立するようになり、木舟城は前田氏の領地である加賀に近いために前線基地となります。末森城合戦の際も同年9月8日に木舟城から佐々成政軍一万五千が出撃し、能登国末森城を包囲して攻め立てています。しかし9月11日には前田利家の援軍が佐々軍の背後を突いて撃退しています。天正13年(1585年)5月、木舟城主佐々平左衛門が越中国守山城主神保氏張、越中国井波城主前野勝長と共に、前田方の越中国今石動城を攻めていますが、守将の前田秀継、利秀親子によって撃退されています。これを今石動合戦と呼びます。
天正13年(1585年)8月にはついに豊臣秀吉の北国征伐(富山の役)により成政が降伏しています。この際に成政軍が木舟城付近で夜討ちを仕掛け、前田軍に数十人の死傷者が出たという記録が残っていて、成政降伏後には前田軍が慰霊祭を行ったとされています。
富山の役により、越中3郡は前田氏の領地となり、木舟城も前田氏の持ち城となって、前田利家の末弟である秀継が城主となって4万石を与えられています。
ところが同年11月29日にあの天正大地震が発生しています。これにより城の地盤が三丈(約9m)も陥没して木舟城は倒壊しています。この地震で秀継夫妻と多くの家臣たちが生き埋めとなって圧死しています。遺体が見つかったのは3日も後の事だったと言われています。また木舟城下も壊滅的な打撃を受けています。遺領は秀継の子である利秀が継いで木舟城に入っています。
なお、天正大地震の被害は各地でも報告されていて、飛騨国帰雲城は帰雲山の山崩れによって埋没して、城主内ヶ島氏理とその一族は全員死亡し、内ヶ島氏は滅亡しています。
また、美濃国大垣城も全壊焼失しています。近江国長浜城も全壊、城主山内一豊の息女与祢姫が死亡するなどの被害を出しています。徳川家康の居城であった三河国岡崎城も大破、織田信雄の居城であった伊勢長島城が全壊と、有名な城も破壊されています。だいたい伊勢長島城など地震があったら液状化現象が起こるのは目に見えていますが。織田信雄は長島城が倒壊したために清洲城に居城を移しています。
天正14年(1586年)5月には、利秀が上洛途中の上杉景勝を木舟城にて迎えています。
しかし前田利秀は、木舟城の被害が大きく、城下も震災で壊滅していることから立て直しは困難であると判断して、その年のうちに木舟城は廃城となり、行政機能は今石動城に移されています。
当時の木舟城は、主郭の北と南にも郭を構え、三重の堀に囲まれていたと言われています。更に周囲は湿地帯であったので攻めにくい城であったようです。長い歴史がある木舟城ですが、上杉軍に攻め落とされた以外には木舟城が落城したというはっきりした記録は残っていません。
城下町は東西1.2km、南北1km程度の規模であったとみられます。利秀が今石動城を居城としてその周囲に城下町を建設することで、中心地が移動し北陸道のルートも今石動城下を通るようになったと考えられます。